越中地下倉庫・日々の記録

日々書いたものをネット上に放出していきます。

個々人が投票程度の行動すら実行しない場合がある。そんな風にメンテナンスされなくなった民主主義がどうなっていくのかを、実際にあとどのくらい見ていられるだろうか。

最近の村の寄り合いでの諸々も、詰まるところは人が居ないなかでどうしようかという話だ。
獅子舞について、氷見市からアンケートが回ってきていて……。という件もあって見てみたが、20年前にやったらどうかというような内容だった。職員全員が氷見市出身でなく、氷見市に居住していないということでもないだろうが、これを経ないとなにに繋げられないのだろう。

ところで、祭りがたちゆかなくなるのか、獅子舞がたちゆかなくなるのか、本当は、地元の神社への崇敬の形をどの様に変化させていくかということでしかないのだけれど、その角度で触れると「宗教がかっている」ということになるのだろうか。
本質を隠蔽しても、長続きはしないのだけれど、神社の維持ということになると、余計に「もういいじゃないか、そんな時代じゃない」という破壊的な意見も出てくるかもしれない。

人が共同体に参加してメンテナンスを実行するプロセスは、徹底して破綻していると見ていいのではあるまいか。

さて、記録として保存するなら、いまどきはモーションキャプチャーも安価にできる様になったから、国の予算を探してきてみて、とにかく記録だけして、ふりの記録と鳴り物の録音、採譜ぐらいまで、その気になれば「このアーカイブから学習して再現が可能」というものが作れるのではないかと思う。

ひょっとしたら、そのうち都会から「国のこの予算で、こんなソリューションで」という提案を持ってどこかの企業の営業が役所にやってくるかもしれない。それまでに、どのくらいの獅子舞が無くなっているかはわからないが、それはそれで、たいへんな努力で、ようやくなんとかできたとなるわけで、重畳。