面白いものを見るために、モラルを犠牲にするというのは、どういう事かについて、考えている。
先日観た映画『ギャザリング』は、キリストの処刑をただ見ていただけの連中が、罰を受けて不死となり、見続ける事を強いられたハナシだった。そりゃあ、神の前に立っている連中は、賞罰はっきりしている分、反省のツボもはっきりしているから、楽チンなハナシ。いや、お寺の幼稚園での躾けの基本は、ナンナさんがちゃんと見て知ってるから……。だったから、相対してはいなくても、ほぼ同じ様な感じ。対面じゃないから、成長可能な方向が違うだけ。
例えば、googleメールが、メールの内容によって挿入する広告を変えるという、非常にブラザーなサービスを開始するらしいのだけれど、CNET Japanの『梅田望夫・英語で読むITトレンド』なんぞを見れば、
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001120.html?tag=nl
Googleという会社が、天才ギーク技術者集団という現在の性格から脱皮して、顧客からの信頼・安心感を勝ち得る真に立派な企業になることなのである。そしてそれが、株式を公開して、公開企業になることの本当の意味である。
金もうけはゲームで、難しいルールのゲーム程、面白い。世界を変えるかもしれない金もうけをしていると思えば、そのスリルや高揚感たるや、ただごとではない。それは理解できる。
で、これ、誰がベータテスターになる?練れていく過程での失敗の責任は誰が取る?壊したものを弁償するとか、原状復帰で返すという種類の責任の取り方ができる種類のものではない。広告の効果を上げるために、より効果的なユーザーと文脈と広告の組み合わせを調整したりするのは、メールの本文を見なくても大丈夫な作業だ。そうだよな。
世界を変える勢いと志の企業の成長の全てが、リスクをきちんと管理して、事故を未然に防ぎ、きちんとした成果をあげた結果の集成かというと、そうでもないのが世の中の楽しいところ。どんな広告を放り込んでくるのか、実験してえなあ(笑)。
googleが楽しみのために見るのかということになるけど、経済活動を成功させる事も楽しみのひとつ。
『ギャザリング』に戻せば、罰せられた見る楽しみというのは、もっとストレートに、好奇心満たす楽しみ方。
言い訳とか、自己正当化は勿論。手続きの正しさがその楽しみの正しさの何になるのかと、ええと、だから……。
銭湯の女性客盗撮を警戒 滋賀で携帯使用禁止店も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040406-00000015-kyt-l25
あかんわ。なんでもありってことで、ひとつ。自分で気をつけます。
頬がこけているね
あれ、かわいそうなんよね