受験が一段落して完全に弛緩した小僧と、同じく早々に高校受験が一段落した小僧の友達が朝からスマブラをしながら歓声をあげているのを他所に、鉄道に乗って本を読んでいただけだったものの、疲れていた様で、漠然と過ごす。
生八ツ橋の皮を買って来たが、ニッキの味が足りない。調べてみたところ、ニッキの味がしっかりと入っている店は、意識して選ぶ必要がある様子。覚えておくことにする。
朝、泰子先輩が録音した、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」の朗読を聞いて、どういう方向に持っていくかでチャット。
この詩は「いちばん綺麗だったけれど、とんちんかんだった」「きれば長生きをしてルオーの様な美しい絵を描こう」という心境に達している。
ルオーを凄く美しいから、そんな絵を描こうと思った、そのルオーを読み手はどう定めるのか。
例えばこういうチューニングがきちんとできる合成音声のツールが登場したら、ひょっとしたら人が朗読を担う必要はなくなるかもしれない。
朗読は、そもそも声優とかアナウンサーが適当にやって、みんな居眠りしながら聞くものだろうか。
日本の現代語では、かなり軽く見られているだろうし、そんな意味では芸術として発生すらしていないかもしれない。それはもったいない。
アナウンサーがやりそうなこと、俳優がやりそうなこと。全て違うので、本当はちゃんと技法が意識されたほうが良さそうなものだが、今の時点で、換金できている程度の質であちらこちらが平和なら、今よりマシになるチャンスはないだろう。
Blueskyで生成AIについて考えている人が居るのを見ていて改めて考える。
道具が人に代わって芸術を担えるなら、とっくの昔に芸術自体の質が変わっているだろう。
今、AIが代替云々と言っているのは、利害関係者と浅い検証か、それすらせずに適当に尻馬に乗っている奴だ。
AI以前に、Webが陳腐化して「集金できる」「集金できないと成り立たない」が始まってから、あらゆるクソが蔓延しているので、日本なら金の都合でいろいろな芸術が滅ぶ可能性はあるかもしれない。