普通とはなにかを問うてくるという触れ込みだったが、書割の様な人物のかみ合わせが描かれているだけだった。
「普通」がわからない人が周囲のことが理解できない様子を追うだけでは、面白くなりようがない。
古倉は、幼い頃から情緒に欠落があり、大学を卒業してもなお、コンビニのアルバイトを続け、コンビニでの労働に全てを捧げて生きている。
普通を求められるが、それが理解できないから戸惑うのは普通のことで、これを自分の都合が良い様に理解して利用しようとしない分、善良な人間と見て取れる。
共感のベクトルがおかしいだけで、共感しないわけではない。むしろ、生きて時間を多く過ごすコンビニという職場に完全に適合することを選んでいる以上、その埒外のもを本質的に全て不要なもと判断するというのは、間違っていない。
古倉が生きるために労働して対価を得ることに過度に適応した結果を、ただ本人が「普通」に対して理解できない、居心地が悪いと考えたことに対して、額面以上のなにを読みとる必要があるのだろうか。
他者との齟齬が人間関係であり、生活のはずだ。
古倉が「普通でない」ことを了解し、他の登場人物は古倉がそう扱った様に、それぞれに「普通」相のひとつとして扱うことが求められる。
ただ、彼らの「普通」が結局、古倉を自分たちの理解の及ぶ位置に置くために、古倉のそのままを理解しないことに終始する。彼らと古倉の様子は、一見展開した様に見えて、結局のところ古倉と「普通」の関係にはバリエーションが発生しない。
もうひとりの「普通」ではなさそうな登場人物の白羽は「普通ではない」のではなく、ただの凡庸な落伍者でしかない。実は「普通」の一部だ。
白羽はトリックスターとしての機能を果たすわけではなく、ただ単に社会から落伍しているだけで、主人公の古倉の様に、「普通」とベクトルが異なるというわけではない。
結局は「普通」の範疇に身を置いている。
白羽は、白羽の「普通」の言い訳と凡庸なルサンチマンを繰り返す。古倉と違い、白羽は他者によって明確に普通との距離を定義されるし、自分自身もそれを承知している。
古倉は、善良なので「普通」とは敵対しないし、白羽は「普通」の一部でしかないとしたら、ここにはなにがあるだろう。
つまらなくも美しく並べられた図式的な流れの最後に、主人公が発見した適所で力を存分に発揮しても、理解されたり十分に報われることはなく、この小説が名人伝でもなければ、ストレートに人間疎外を描いた風でもないことに、おののいてみるべきだろうか。
ところで、続けて『殺人出産』も読んでみたけれど、登場人物のつくりがマンガの様で存在感を云々するというより、ストーリの構成上のコマの様な扱いの存在と見えた。
そんなわけで、多分、村田早耶香の他の作品を読んでも、あまり楽しめないと思った次第。違う手付きのものがあると聞いたら、また手を出すかもしれない。