著者の不自由な肢体から発したとして、そこにルサンチマンがあるとして、それにしても自由な小説だったのではないだろうか。
動ける主人公にする必要もなければ、作者が実際に、書いてネットに放流していた経験を活かしていくことも、普通に納得のいくことだ。
親と金に守られて、困難な身体を生きる。できないことが、あまりにもはっきりしている。
読者は、これを突きつけられながら、フィクションの中の現実と、フィクションの中のフィクションを見ていくことになる。
井沢釈華にとっては、書いたもの、書けてしまうものもコントロール可能な現実の範疇だ。
ハプニングバーに関するコタツ記事や、エロ小説との対比として、井沢のネットでの活動を知っていた田中が、井沢の依頼を実行したものの、そこから多額の報酬を得ることができずに姿を消したことに、可能とは?という問いが含まれている。
テレビのリモコンが壊れ、フィクションの中の距離感が整理されたところで、エゼキエル書が引用され、おそらくは井沢釈華のエロ記事で締めくくられるこの小説の多重性は、ハンチバックの女性が得た多重性と、それを読む読者がどのレイヤーでこの小説を読むかにも直結する。
田中とのことは、井沢の手でフィクションとして改変され、不可能と可能についての煩雑な問いが、軽やかに放り出される。
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